冴え返る月の夜
甲板へ出るとアスランを一陣の強風が襲う。吹き荒ぶそれにアスランの夜に紛れる様な藍色の髪が乱れ、緋色の軍服の裾が靡いた。
海特有の潮の香りを孕む肌寒さすら覚える冷たい風が、けれども心地良い。
視界にかかる髪を指先で払いつつ、甲板端へと足を進めた。軍靴が小さく高質の足音を立てる。
甲板の端まで来ると艦に波が打ち付ける様が窺える。
微量の明かりの元では海面は黒く見え、波打つ度にきらりと月明かりを反射し輝いた。
手摺に腕を置き、凭れる様にして海から空へと瞳を移す。
既に宵時。すっかり日は沈みきっており、夜の気配だけが周囲を包む。
頭上には濃紺とも黒とも知れぬ色が広がり、控えめな星が瞬いている。
その中で一際輝き放つのが月。
今宵は綺麗に丸を描く。
「満月か…」
太陽の日差しとは違う銀の光。突き放すように冷やかな輝きなのに何故か心を慰めてくれる。
銀の色は何処かの誰かさんにそっくりだ、とそう思った。
自然、薄っすらと笑みが口元に浮かぶ。
ゆらりと静寂が歪むのを感じた。
背後に己以外の気配が近づく。
軍人ゆえの敏感さが捕らえた、と言いたいところだが、こうもわかり易い気配を立てていては常人でもすぐ気が付くだろう。
それに次いで不貞腐れたような声が聞こえた。
「何してるんですか、こんな所で。」
振り返った先には想像通り、黒髪に紅い瞳が印象的な少年が一人立っていた。
アスランと同じ緋色の軍服に身を包んだ少年はやはり想像通りの不機嫌顔だった。
少年はアスランと相対する時決まって不機嫌な表情をする。纏う空気も何処か尖がりを帯び、この波浪の様にざわめき立ちアスランに押し寄せる。
相手に気取られやすいなど軍人として如何なものかと思うのだが。
そういえば、昔の彼もわかり易い気配をしていた。
やはり、この少年のようにいつも不機嫌そうな顔と態度でアスランに接してきた。
よくアスランに突っかかってきていた所もこの少年と似ているかもしれない。
決定的に違う所があるとすればきっと、彼の方が大人だと言うことだろう。
例えば、実力であったり、経験値であったり、思慮深さであったり…
アスラン自身ですら年の差を感じる瞬間がある。
彼は感情的だったが、時折、酷く静かで此方に悟らせない気配を纏っていることがあった。
そう、ちょうどあの時の様に――
夜の帳が下りきった時刻にアスランは甲板の上で一人空を振り仰いでいた。
アスランが初めて見る本物の地球の空だった。
しかし、アスランは月に焦点を結んでいるようで、実際には翡翠の瞳に何も映していない。
もっと遥か遠く、過去を見つめていたのかもしれない。
どれくらいそうしていただろう。
「何をしている?」
突然かけられた声に驚いた。
振り返るとすぐ後ろに好敵手と言える彼の姿があった。
いつもなら背を向けていても気配でその存在を悟ることが出来たのに…
普段とは違う凪いだ海の様な気配のせいで気が付かなかったらしい。
「いや…」
問い掛けに返せる言葉を見つけられず、口篭る。
代わりに質問で返す。
「そういう君こそ、こんな所に来るなんて珍しんじゃないか?」
これに返答はなかった。
彼が隣に並び、アスランがしていた様に空を仰ぐ。
沈黙を纏う姿が彼らしくない。
考えてみると彼は饒舌ではないが、黙していることは少なかった。
それはすぐに激昂する感情的な性格と、悪態や嫌味、皮肉を吐く癖の為だろう。
「満月か。」
常にはない彼の様子に困惑を覚え、ぽつりと小さく零された声を思わず聞き逃しかけた。
「え?ああ…うん、そうだな。」
「…気付かなかったのか?」
「考え事を、していたから…」
気持ちが落ち着かない。彼の傷の走った横顔と月が浮かぶ空を視線が行き来してしまう。
彼はやはり静かだった。
「情緒のない奴だ。」
淡々とした感情の見えない口調だった。言葉とは裏腹に声音に皮肉さが全くない。
「ずっと空を見ていたくせに。」
彼の言にはっとした。
「ずっと、って…お前いつから居たんだ?」
声をかけられるまでアスランは彼に気が付けなかった。
思ったよりも前に彼は来ていたのだろうか。
「さあな。」
だが、返ってきたのは曖昧な答えで…益々落ち着かない。
けれども、居心地は意外に良くて、ほんの少しアスランは目を細め彼を見つめた。
僅かな光源の元でも彼の蒼い瞳はとても綺麗で、真っ直ぐに月を振り仰いでいる。
柔らかく降り注ぐ月明かりと夜のしんとした静謐な気配が今の彼が纏うものにとても似ている。
すると、彼の銀色の髪が月の様に見えた。
普段は外見に似合わず熱く激昂しやすい様から照りつける太陽に近く思えていた。
だが、今この時の彼は月の様だった。
全てを拒絶しているようで、全てを受け止めてくれる。
静かで穏やかにすら見えるのに酷薄で、淡い輝きが冷たい様で優しい。
それは酷く心地がいい。
惹かれるように手が伸び、銀糸に触れる。と、今まで感情のなかった彼の相貌に驚きが浮かびこちらを振り返った。
アスランは己の無意識の行為に慌てて、手を引く。
「あ…ごめん。」
瞳を揺らし、謝罪が零れる。
不意に中途半端に上げたままだった手が彼に掴まれた。
アスランが顔を上げると、視界が翳る。翠の瞳に青の瞳が重なり、ゆっくりと近づく。
唇に柔らかな感触がした。
一瞬何が起こったか理解できなかったが、すぐに口付けを施されていると気付く。
不快感は全くなかった。寧ろ、心に空いたものを満たしてくれる様に思えた。
瞬きすらも出来ず時が止まったように感じる。
それは一瞬の出来事だったのかもしれないし、意外に長い時間だったかもしれない。
蒼い瞳がゆっくりと離れていくのと同時に遠ざかる熱が名残惜しかった。
思わず、繋いだままの手を握り返す。
すると彼が目を細め笑った。その密やかな微笑が優しくて、温かい。
今度は互いに瞼を伏せる。
再び、唇が重なる。
冴え返る月の夜、二人は甘い時間に浸った。
あれはアークエンジェルを追いかけていた頃だった――
「ちょっと、聞いてます?」
叫ぶような少年の声に思考を中断させられた。
はっとして少年を見遣ると案の定、先程よりも不機嫌さが増している。
「あ…悪い。少し考え事をしていた。」
取り繕うように笑って見せる。それが困ったような笑顔であることにアスランは気付けない。
少年の胸の内に寂しさが過ぎる。けれども、それを押し隠し少年は不機嫌さだけを見せた。
「…何をですか?」
「昔のことだ。」
アスランはそう言って、先程と違い美しい淡い微笑を浮かべた。
「…昔もこうして満月を見上げたな、って思って。」
そう言ってアスランは月を振り仰ぐ。
「誰かと一緒だったんですか?」
「ああ、よくわかったな。昔の仲間と…」
わかるに決まっている。アスランの月を見る瞳は穏やかでとても嬉しそうなのだから。
なのに、アスランは何にも気がつかないまま、月を見ている。
それが少年を切なくさせた。
「そう、ですか…」
自然、声が沈み、顔を俯かせる。
流石にそれにはアスランも気が付いた。
しかし、肝心の理由に辿り着いてはくれない。
「シン?どうかしたか?」
顔を覗き込もうとするアスランを少年はキッと真紅に燃える瞳で睨みつける。
「何でもありません!」
言うや否や、少年が踵を返し艦内へと走りだした。
「あ、おい。シン!」
突然の少年の変貌にアスランは驚き、大きく少年の名を呼ぶ。
けれども少年は返答することも振り返ることもなくて、あっと言う間にその姿は見えなくなってしまった。
後に一人残されたアスランは困惑するだけ。
決して少年の思いに気付くことはない。
お祭り企画サイト「Feast of hourglass」様へ投稿した作品です。
お題の一つ「17.冴え返る月の夜」でした。
イザアス←シン。
明らかにシンが気の毒です…
ちなみに、イザークとアスランが過ごした「甘い時間」の続きはご想像にお任せします。
この作品にizakita様がコラボくださったイラストがあります。
izakita様の素敵イラストは此方です。
07.11月29日
08. 5月 8日 サイト掲載